河童さんのレシピⅡ
思い出したので…河童さんは「カステラ用の定規」を持ち歩いています。カステラの厚さは2.6cmが一番おいしいそうです。ビールが美味しく飲める注ぎ方も教わりましたが、その動画は「まるのめぐみ」さんがアップしてくれるはずです。 ちなみに河童さんを「妹尾先生」とか「河童先生」と呼ぶと千円とられます。現場では上下関係ではなく「才能が勝負」とおっしゃっていました。僕は三千円まきあげられました。 #
by kyorakuza
| 2013-02-13 20:16
『中西和久のエノケン』(ジェームス三木/作・演出)の四国ツアーが終わって帰京の挨拶のハガキを妹尾河童さんに出していたら、今日昼間に「おかえりー」と電話がありました。
出発前の1月11日、公開ゲネプロ(舞台稽古)に立ち会っていただいて以来です。舞台美術のスタッフなのに僕に猿の演技指導までしてくださった。これが実にうまい!「河童の猿真似」は定評があります。おかげさまで本番では客席からさかんな拍手をいただくことができました。 話は変わりますが、河童さんの結婚記念日は2月6日です。毎年この日妹尾家では、おつれあいと夕食をとりながらの儀式があるんだそうです。河童さんが「もう一年一緒にやっていただけますか?」と言うと「はい」と応えが返ってくるそうですが「いや」と返事が返ってきたら河童さんどうするんだろう。確か一昨年は50周年でした。 それで「河童さん、更新は大丈夫でしたか?」と聞くと「OKがでたよ。」と嬉しそうにおっしゃっていました。 ところで電話があったついでに、質問しました。妹尾家の名物料理で白菜と豚バラだけの鍋料理について。 白菜と豚バラを交互にはさんで、グルーっと縦に並べて…上から見ると渦巻き状です。白菜の幅は鍋の厚さと同じ。蓋をして熱して行く。水は使わない。白菜から水が出てくる。仕上げにごま油をたらせば出来上がり。この最後に加える調味料が何だったのかわからなかったのです。 今日は、この鍋で晩御飯。あ、最後にご飯を加えると「おじや」になる。 この鍋料理の名前も聞いたんですが忘れました。 ちなみ映画に「少年H」の劇場公開はこの8月だそうです。 #
by kyorakuza
| 2013-02-09 20:19
昨年12月10日朝、訃報を聞いて僕は世田谷代田のご自宅に急いだ。 まだ、息を引き取られてから半日ほどのこと。ご家族に看護られて安らかな眠りにつかれている様子だった。 手を合わせて思わず呟いた。 「おつかれさまでした。」 1976年、僕は小沢昭一さんが主宰する劇団「芸能座」の研究生となった。 その頃、小沢さんは野坂昭如氏、永六輔氏と「中年御三家」を結成し、武道館を満杯にしてのコンサートを開いたり、「日本の放浪芸」の研究を精力的に展開するなど、特異な俳優活動をされていた。 やがて一座を結成すると旗揚げの『清水次郎長伝伝』(作・永六輔、演出・小沢昭一)で爆発的な人気の劇団となった。 以来36年間、僕は小沢さんを師と仰いできた。「師」なので「先生」と呼ぶべきなのかもしれないが、小沢さんはそう呼ばれることを拒んだ。 同じ板を踏むのに師匠も弟子もないことを告げたかったのかもしれない。 しかし、小沢さんと同じ舞台に立つたびに僕は必ず「病気」になった。 圧倒的な師の演技を間近に見てしまうと「一生かかっても、この人のようにはなれまい。もう俳優の道は諦めよう。」と毎回思った。 毎回なので「ああ、また病気か」と思うのだが「いや、今度ばかりは本物だな」と真剣に思った。 79年春、新宿・紀伊國屋ホール『しみじみ日本・乃木大将』(作・井上ひさし/演出・木村光一)、僕の役は「感心な辻占売りの本多武松少年」、乃木大将はもちろん小沢さん。 三河屋の小僧となった書生志願の少年は乃木邸に忍びこみ、愛馬に別れを告げに来た乃木大将めがけて飛び出してくる。 初演初日の第一幕第一場、僕は緊張のあまり膝がガクガク震えていた。 「一生のお願いでございます!」と言って舞台に転び出た少年はやがて大将の膝に縋りつく。 その瞬間、僕はハッとした。小沢さんの膝が小刻みに震えていたのだ。 「この人にしてこの震えか!」座長、プロデューサー、主演俳優…さまざまな役柄を一身に引き受けて小沢さんは舞台に立っていた。 あの時の「堂々とした孤高」を僕は未だに忘れられない。 小沢さんは自立した表現者だった。だから群れをなすことを嫌い、ベタベタする関係を嫌った。旅公演の合間には一人で街を散歩したり、芝居がハネると深夜まで原稿用紙に向かっていた。 役者でもあり学者でもあり、舞台・映画・ラジオ・テレビ八面六臂の活躍だったが、いずれも「小沢昭一」を演じていたのではと、今更ながらに思うのだ。 小沢さんには公私ともに迷惑のかけっぱなしだった。 「破門」を言い渡されて当然のことを僕は何度もしでかした。 それでも小沢さんは僕を受け止めてくれた。そればかりかその不肖の弟子の為に方々に頭を下げてくれていた事を僕は後になって人づてに聞いた。 そういう人だった。 「中西君、俳句をやらないか?俺の人生、俳句でどれだけ救われたかしれやしない。」 数年前、僕が相当落ち込んでいる時にそうおっしゃった。小沢さんは気心の知れた仲間たちとこの40年余り、毎月句会を開いていた。 俳号は「変哲」。 俳句をひねることより、句友と過ごす時間が楽しかった様子だ。 今、僕の手元にその句集の一冊がある。 その中に「演じない小沢さん」がいた。 旅から旅の生活で、めったに家に帰ることはなかったらしい。 近年はようやく落ち着いた時間を過ごされていた様子だが「女房が珍しくってねえ。」と冗談まじりでおっしゃっていた。 しばらくは戻れぬ旅の湯ざめかな 変哲 12月15日昼過ぎ、黒塗りの霊柩車が、自らのハーモニカ演奏『丘を越えて』(作曲・古賀政男)に送られて万雷の拍手の中、信濃町・千日谷会堂の坂をゆっくりと登って行った。 それがわが師小沢昭一さんとのお別れだった。 *俳優小沢昭一さんは2012年12月10日、83歳で死去。 西日本新聞2013年1月9日掲載 #
by kyorakuza
| 2013-01-12 14:45
代々木公園に行った。全国各地から「さようなら原発」の集会に17万人(主催者発表)。これだけの人が集まったことに主催者もびっくりしていたようだ。
僕が「行ってみようかな」と思ったのは昼前だった。誰に誘われたわけでもなし、まして組織的に行動している訳ではない。天気は良いし、散歩にでも行くようなつもりで出かけた。 原宿に着くと集会参加者でごった返していた。集会は始まっていた。呼び掛け人は大江健三郎、澤地久枝、鎌田慧、落合恵子、鶴見俊輔、内橋克人、瀬戸内寂聴、坂本龍一など現代日本の良識を代表する人達といってもいいだろう。広瀬隆氏は原発事故についてわかりやすく、福島で被災された武藤類子さんの挨拶は灼熱の集会に参加した一人ひとりに優しくかたりかけ、絶望の向こうにある希望を語りかけた。 人垣をかき分けながらメーンの舞台を目指して行くと大きな音響装置を積んだトラックが目に入った。近づいていくとギターを手にした趙博(パギヤン。京楽座公演「アウトローWE」に出演者)がいる。これからこのトラックの上で歌うのだという。パギやンは新宿梁山泊に 今度新作を書いた。金守珍が演出する。八月半ばから吉祥寺シアターで上演予定。題名は「百年 風の仲間たちへ」。 メーン会場からは聞きなれた声が聞こえてきた。司会は講談師神田香織。彼女は福島県出身。以前、京楽座のワークショップでお世話になった。 やがて3方向に別れてデモが始まった。しかし、僕はこのトラックのそばでのミニコンサートにとどまった。暑さにバテてへたりこんだわけではない。李政美(イジョンミ)のライブが始まったのだ。彼女の歌声をはじめて聞いたのは10年ほどまえ、葛飾のホールだった。彼女の歌唱力は永六輔さんが激賞していたので、それで聞きに行ったのだ。透き通った歌声に魅了された。 トラックの前をデモ隊がシュプレヒコールをあげながら通っていく。目の前であの李政美が歌っているのに、少し音量を下げられないものか。 しかし、彼女は自分の歌に集中しているのか…いや、彼女はその状況さえ自分の世界にしているようだった。歌手として大きな存在感を持つ人だ。 ただ僕はそのシュプレヒコールの音量のあまりの無神経さに、ついにいたたまれず駆け出した。デモ隊の先頭の指揮者に「ライブやってるんだから、少し音を下げてくれない?」 二言三言の押し問答のすえ、デモの指揮者も理解してくれた。ちょっと昔のデモなら、鉄パイプでぶんなぐられているところだ。時代が変わったのか、いや「反原発」というテーマで皆、仲間を求めてここにきているのだ。どこの団体のデモ指揮か覚えてはいないが、日焼け顔にニッコリ白い歯が見えた。 「イーハトーボの劇列車」(井上ひさし・作/木村光一・演出)という芝居の初演、再演に僕は出演していた。もう30年ほど昔のことだ。その、ラストシーンで宮沢賢治は死を前にして、この世に思い残しのセリフを言う。「広場があればなぁ。広場があればそこで、みんなが談合ぶったり、鹿踊りや、神楽を楽しんだり…とにかく広場があればどんなにいいか知れやしない。」(思い出しながら書いているので、たぶん正確ではない)。 そういえば、井上ひさし先生がいらっしゃれば、きっとこの集会の呼びかけ人の一人になっていらしたことだろう。 李政美の澄んだ歌声が代々木公園に響きわたった。 ちょっとおせっかいだったかな? #
by kyorakuza
| 2012-07-16 22:45
三年前から小田急線の新百合ヶ丘にある昭和音楽大学ミュージカル科で毎週水曜日に講師をしています。
「声の表現」に関する授業で「講談」「朗読」「説経節」「コント」「台詞術」など日本語による表現の数々を学んでいただきます。といっても諸々の芸能、表現の一部にすぎません。でも若いときに触れておくことが大切だと思います。ミュージカルといえば、つい洋物を思い浮かべてしまいますが、歌舞伎もミュージカルです。 僕のひとり芝居の中には、いろいろな語りの要素が盛り込まれているので、また、そのひとり芝居は和製ひとりミュージカルとも呼ばれているので、そういう変なことをやっている役者も見てみよう、ということで講義の時間を用意してくださったのでしょう。 以前、外務省からの以来で外国人に日本語を教えるという講座をやったことがありました。世界中で日本語を勉強している若い人たちの中から成績優秀者を日本に招待し、日本語のいろいろを勉強していただこうという講座でした。たまたま『しのだづま考』をご覧になった担当者から依頼され、外務省の日本語研修センターでやりました。 教えるというのはもう一度学び直さなくてはいけません。ありがたい時間です。 #
by kyorakuza
| 2012-05-25 10:05
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