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2013年 08月 06日 三国連太郎さん逝く。
昨年から大きな役者さんが次から次に旅立たれていて、この小さな役者は今、心が風邪気味です。
大滝秀治さん、森光子さん、中村勘三郎さん。
いずれも、遠くから眺めるだけの存在でしたが僕にとってはいずれも大きな人たちでした。

大滝秀治さんには数年前、彼の代表作「巨匠」(木下順二・作)が俳優座で上演された折、終演後六本木の寿司屋でご一緒したのが最後でした。
こう書くと「高級寿司屋に彼の大先輩に誘われて」とは想像しないでください。
その時の舞台にあまりに感動した僕は、そのまま地下鉄には乗れずに六本木をブラっとした挙句、俳優座前の「寿司ざんまい」に入ったのです。
寿司をほおばりながら、先程の舞台をもう一度反芻していると、その舞台と同じような声が隣から聞こえてきました。
なんとカウンターで隣り合わせたのが、大滝さんでした。
挨拶もそこそこに僕は、先程ロビーで手に入れたパンフレットにサインをお願いしました。

そのパンフレットは僕の宝物です。僕は同業者に自分からサインをねだったことはありません。
師匠の小沢昭一さんや、三国連太郎さんにもそうでした。

中村勘三郎さんは、一回だけですが新橋演舞場公演『薮原検校』(井上ひさし・作)で僕がまだ二十代の後半、彼はその頃二十代半ばでまだ勘九郎でした。
僕はその弟分の役でしたが、この舞台に関しては改めて書かせて下さい。
「若旦那」がぴったりはまる役者でした。

さて、昨年の暮れに師匠の小沢さんが亡くなり、それでも大きな痛手でしたのに四月十四日には三国連太郎さんが逝かれました。

三国さんとは、彼自身のメガホンによる『親鸞・白い道』に出演させていただいた時からのご縁でした。松竹制作のこの映画はその年カンヌ国際映画祭で「審査員特別賞」を受賞した大作で、僕は親鸞に付従って行く朝鮮人刀工の役でした。
ロケ先でほとんど半年間お世話になりましたが、とにかく出演者より監督のほうが圧倒的にカッコ良かった。
僕の最初のひとり芝居『火の玉のはなし』は、そのロケを掻い潜りながら作ったものです。
ひとりの俳優の並々ならぬ情熱で作品が生まれていく現場を間近に見た僕は、この偉大な俳優を仰ぎ見て、「仕事を待っている俳優」から「仕事を作る俳優」になってみたいと思ったのです。

以後、細々ながら三国さんとの交流はありましたが、二〇〇六年に京楽座で制作した『破戒』に三国連太郎さんは声で出演していただきました。

ほんとは生出演していただきたかったのですが、彼の偉大な俳優を稽古から舞台出演と約一カ月も拘束するには、京楽座は小さすぎました。
この時主役の丑松は僕でしたが、「蓮華寺は下宿も兼ねた。」ではじまる冒頭の朗読や、丑松の父の声は三国さんでした。
この芝居はこの年の文化庁芸術祭参加作品となり西川信廣演出、五木寛之監修という大布陣で臨んだ舞台でした。

三国さんは、ちょっとした仕事にも真摯でした。
声の依頼ですから、スタジオ録音のその日だけで終わる仕事ですが、こちらからお願いするでもないのに築地の稽古場に五・六回お運びくださいました。

三国さんと言えば、気に入らない仕事だとその場で「降りる!」とおっしゃる方だと伺っていましたので、主役や座長、プロデューサーを兼ねる僕はヒヤヒヤでした。

それから、しばらく時間も過ぎた頃二〇〇九年の夏。僕は新国立劇場で『をぐり考』を上演しました。客席に三国さんの姿がありました。
終演後、僕が「お見送り」をしている時に三国さんが寄って来て握手を求められました。

『親鸞・白い道』のロケの旅館で、夕食の後、三国さんを囲んでワイワイやっていると、「中西君。何回くらい台本を読む?」と三国さんが聞かれるので、「さあ、五十回くらいでしょうか」と応えると「ぼくは二百回読みます。「あわわわ!」

以後、僕は二百回以上読むことにしました。

三国さんも小沢さんも、才能以上に努力の人でした。
特に三国さんは「うそ」を嫌う人でした。
だからかな?結婚歴四回。
佐藤浩市さんは、二番目の奥さんとのお子さんとか。
自分に正直なんです。
ちなみに、今の奥さんは、僕とあまり年は違いません。

暮れに小沢さんが逝かれ、春に三国さんも逝かれ、京楽座の事務所にはお二人の色紙が飾られています。
それを眺めると僕にはきまって、映画『越後つついし親不知』(作・水上勉/監督・木下圭介)のラストシーンが浮かんできます。

妻を寝取られた小沢さんがその相手の三国さんに抱きついて、親不知の断崖絶壁の海に飛び込んで行くんです。
そのシーンを撮る時、小沢さんは、ある作戦をとったとおっしゃっていました。

「うそ」の嫌いな三国さんは「ひょっとして、ほんとに飛び込むんじゃないか」という恐怖心にさいなまれたそうです。
そこで撮影の前に小沢さんはその絶壁に二人で立った時、三国さんの背中を後ろからドンと押したそうです。
「ショショショ、昭ちゃん危ないじゃないか。」三国さんの殺気がすっと引きました。
これで撮影は無事終了。

二人の名優に、僕はいろんなことを教わりました。
小沢昭一さん享年八十三歳。三国連太郎さん享年九十歳。合掌。
# by kyorakuza | 2013-08-06 17:06
2013年 08月 01日 大牟田でふるさと公演!『ピアノのはなし」
<母校 中友小学校〉

二〇一三年六月十二日に大牟田市立中友小学校で、中西和久ひとり芝居『ピアノのはなし』を上演しました。

大牟田に帰るたびに近くを通り、遠目にはよく見ている母校ですが、校舎に足を踏み入れたのは、五十年ぶりでした。

木造だった校舎は立派になり、体育館の屋根の形は三角からドーム型になっていました。
しかし、子供の頃に遊んだ滑り台は、設置場所こそ移動したものの、当時のものが使われており、大変懐かしく感じました。

『ピアノのはなし』は、終戦直前に、「ピアノを弾きたい」と鳥栖の小学校を訪れた二人の特攻隊員のことをピアノが語るという芝居です。
ピアノ役の私が、冒頭で「私はピアノです」というセリフを言ったときに、一五四名の子どもたちが素直に、芝居の中に入り込んできているのが演じていてもわかり、非常にうれしく感じました。

この公演の模様は、地元のメディアにも取り上げられ、有明新聞には「迫真の演技で戦争の悲劇を伝えていた」と紹介されました。


<大牟田文化会館〉

中友小学校での公演の翌日、二〇一三年六月一三日には大牟田文化会館で、『ピアノのはなし』の二百回記念公演でした。

もともとは大牟田学園中学校からのご依頼だったのですが、一般の方々にも見ていただこうと、地元の座・未来塾主催で、文化会館で上演させていただきました。
おかげさまで当日は満席。

このお話は、特攻隊出撃を目前にした音楽学校出身の飛行隊員が、小学校のピアノで「月光」を弾かせてもらい、旅立って行ったという実話がもとになっています。
その実話を芝居にしようと思ったのは、僕は実際の戦争を知らない世代だけれど、戦争の記憶は受け継ぎ続けたいという気持ちからでした。
知覧の特攻平和会館に行って、特攻兵出撃前の遺書の数々を読みました。
その行間から迫ってくるものは、「俺が生きていたということを忘れないでくれ」という若者たちのつましいほどの願いでした。

一九九四年二月に茨城県岩瀬小学校の体育館で初演してから、二百回もの公演を続けられてきたのは、たくさんの方々の応援と協力のおかげです。

原作の毛利恒之さん、素敵なピアノ演奏をしてくださる佐々木洋子さんをはじめ、鳥栖の小学校で長年教師を務められた上野歌子先生、猫の手倶楽部の皆さんに深く感謝します。
# by kyorakuza | 2013-08-01 17:03
2013年 03月 04日 だいじな題字 八重の桜
 へへ、今日はちょいと自慢話です。今年の大河ドラマ「八重の桜」の題字は日映美術の赤松陽構造さんの文字です。日映美術は映画やテレビの題字を製作する、それだけで成り立っている、題字専門の会社です。へー、そんな会社があるのかとお思いでしょうが…じつは僕もはじめはそう思っていました。
 赤松さんと初めて会ったのは、僕のひとり芝居『しのだづま考』のポスター・チラシを作ったとき…もう20年程前でした。初演のときのチラシの題字は活字だったものですから、どうも既製品のようで…なにより芝居の世界が迫ってこなかった。自分でデザインして「やっぱりダメだあ」と腐っていたとき、友達に紹介されたのが赤松さんでした。
 高田馬場の駅裏の長屋の一角に作業場がありました。赤松さんに台本を渡して「毛筆でお願いします。」と言うと「それは、苦手だし専門ではないから…」とやんわり断られたんですが「そこを何...とか」とお願いしました。
 何日かたって、仕事場に伺うと「しのだづま考」という文字が10種類くらい出来上がっていました。「その中からすきなの持っていって。」と言われて、いただいたのが今もポスター・チラシ・パンフレットなどに使わせていただいている文字です。
 題字は、一目見ただけでその作品世界を表出してしまいます。その後、「山椒大夫考」「をぐり考」「草鞋をはいて」など僕の舞台作品ではいつもお世話になっています。
 その日映美術は今やこの業界を代表する会社で、千駄ヶ谷の高級マンションの一角に仕事場を構えていらっしゃる。
 「その男凶暴につき」「UNAGI」「HANABI」をはじめ世界の北野作品の顔になるあの毛筆の題字を提供されていますが、そのきっかけになったのが「しのだづま考」だったそうで、「いやー、中西さんにあの時書いてなかったら…」と赤松さん。そして、今年は大河の題字です。「八重の桜」凛として、愛らしくもあり、いい題字です。
# by kyorakuza | 2013-03-04 19:14
2013年 02月 27日 河童さんのレシピⅢ


 とうとう河童さんからレシピが送られてきました。こういう所にこだわるのが河童さんです。
 料理の名前は「ピェンロー(扁炉)」です。白菜を並べ、豚バラをその間にはさんでいくまではあっていましたが「水を加えない」ではなく、コップ一杯くらいは加えます。どうりで初めにやった時は、台所がもうもうと煙っていました。白菜と豚バラが焼けていたんですね。
 そして白菜からも水が出ます。40分ほどコトコト煮ます。
材料は5人分で
①白菜1株②干し椎茸50g③豚バラ肉500g④鶏もも肉500g⑤春雨1袋⑥ごま油、塩、一味唐辛子適宜⑦ベッタラ漬け適宜
 このところ毎日この鍋に凝っている中西です。
詳しく知りたい人は2012年12月号「dancyu」をご覧ください。永久保存版「日本一のレシピ 読者と編集部が選ぶdancyu史上最高クッキング」
 創刊以来22年間で読者アンケート第1位が、河童さんのこの鍋料理だそうです。
# by kyorakuza | 2013-02-27 12:31
2013年 02月 16日 永さんが泣いた
 一昨日、東中野のポレポレ坐に行きました。写真家の本橋誠一さんがやっている映画館と喫茶店とイベントスペースが一緒になったようなビルで、今では東中野の名所です。客席数150くらいの映画館はいつも良質の映画をやっているし…なにしろ本橋さんは超一流の写真家であるばかりでなく、チェルノブイリ事故を追った「アレクセイの泉」は米国のアカデミー賞候補になったというくらいの映画監督でもあります。また、小沢昭一さんの「日本の放浪芸」探索の旅に同行してずーっと写真を撮っていた人です。
 ポレポレ坐になる前は、お父さんの代からの「青林堂」という本屋さんでした。この本屋さんの2階の空いたスペースで1986年、僕の最初のひとり芝居の稽古が始まりました。
 ちょっと本橋さんの顔を見ようと伺ったんですが、たまたまその日は、夕方から小室等さんのコンサートでゲストが永六輔さんでした。
 開演まで時間があった......ので、打ち合わせの席になぜか僕も飛び入り参加、近くの中華料理屋でご相伴させていただきました。
 永さんはご存知のように、現在はパーキンソン病に罹っていらっしゃいます。でもこの日は調子も良かったようです。19時から小室さんのインタビューに永さんが応え、小室さんが歌うといういい時間でした。
 小室さんの歌は、「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」等、永さんの作詞した歌を歌っていらっしゃいましたが、急に永さんが泣き出してしまいました。永さんにはもう30年以上お世話になっていますが涙を見たのは初めてです。永さんが泣いた歌は…題名が出てこない!(そろそろ俺もヤバイ!)
「いつもの小道で 目と目が会った…」
「いつもの小道で 手と手が触れた」知ってますよね!
初恋の男の子の淡い気持ちを歌ったものです。でもこの歌には永さんが戦中、長野県のある町に疎開している時の思い出が詰まっていました。疎開したその町の近くには「敵性外国人」の収容所があって、よく道ですれ違うそこの女の子に永さんは夢中になったんだそうです。その女の子がロイジェームスさんの妹さんだったとか…。
 だから戦後、永さんはロイジェームスさんとたくさん仕事をされています。
 いいコンサートそしてトークショーでした。帰りに永さんの新著があったので2冊買いました。「無名人のひとりごと」(週刊金曜日)そして矢崎泰久さんとの対談集「ぢぢ放談」(創出版)。永さんが出口に立ってお見送りされていたのでサインをいただこうかと思ったのですが、パーキンソンだし、2時間もしゃべってらしたのでお疲れだと思って、そのまま失礼しました。
 JR東中野から総武線に乗ると、新宿あたりで何となく見たようなひとが僕の前に座りました。よく見ると今、開いている本「ぢぢ放談」の、もう一人の相手、矢崎泰久さんです。この広い東京でこれは奇跡に近い!
 失礼も顧みず「矢崎先生、サインください!」
表紙を開くと矢崎さんは僕の名前と日にちを入れて「永」と書き始めました。「あのー、それ…」
「いいの、永さんがいないときは僕が代筆することになってるの。僕がいないときは永さんが僕のサインをすることになってる。」そういえば矢崎さんは永さんとそっくりのサインをされました。
 市ヶ谷でお別れするまでの数分間、わが師小沢昭一さんの納骨の話になりました。僕がちょうど「中西和久のエノケン」で四国をツアーしていた時、1月27日(徳島)でした。小沢さんは向島の黄檗宗(おうばくしゅう)弘福寺に眠っていらっしゃいます。もっと見る
# by kyorakuza | 2013-02-16 21:58